ビブリオバトルの大会における
「組織票」への対応

1.はじめに

ビブリオバトルは「人を通して本を知る、本を通して人を知る」コミュニケーションツール、情報共有のツールであり、参加者個人個人のためになるように設計されたゲームです。

一方で、このビブリオバトルをより大規模に楽しむため、また、読書推進活動の一助にと各地でビブリオバトルの大会が開かれています。
開催主体は学校、地方公共団体、読書推進関連民間団体などと様々です。
このような盛り上がりがあること自体はビブリオバトル発案者としても大変うれしく思います。

ところでビブリオバトルは

    • 手分けして面白い本を探して来てシェアする

    • 本の紹介を通じてお互いを理解する

    • 気軽にできて、ゲームとして楽しい

    • 一人ひとりが「紹介する」という視点から意識的な読みを出来る

    • ビブリオバトルの繰り返しによって読書が加速される

といったことを魅力としたゲームですが、大会化することでどうしてもビブリオバトル本来の楽しさの一部が、削がれてしまうことがあります。

※ 詳しくはマンガでわかるビブリオバトルに挑戦!(さ・え・ら書房)やるぜ! ビブリオバトル(鈴木出版)などをご一読ください.

具体的には、大会という形式をとるとどうしても

    1. 先生方ふくめ「勝つこと」に意識が行き過ぎてしまう

    2. 発表者の個人の純粋な「本を紹介する喜び,本と出会う喜び」の上に、出身の学校の評価や、学校の代表戦(代理戦争)のような考え方が混入してしまう

    3. ビブリオバトルがもともと主観的な視点の集まりによってチャンプ本が選ばれる「ゲーム」であることが忘れられ、大会の公平性に過度の期待が寄せられる

    4. 発表が一方向的になり、お互いに理解し合う「本を通して人を知る」成分が薄れてしまう

というような変化や問題が生じることがあります。

このような点に開催者側は引き続き注意いただき、大会を開くその本来の目的を達成するために、工夫をしていただきたい旨、まず、はじめに申し上げさせていただきます。
あくまで大会は「ビブリオバトルのお祭り」であり、お祭りとしてのビブリオバトルの大会は教育効果を狙い導入するビブリオバトルそのものとは少し異なるということを意識していただくのが重要かと思います。

上記のような大会化によるビブリオバトルの質的変化のなかには、「本を通して人を知る」成分の低下など、失われるものがあるものの、大きな問題には発展しないものから、ビブリオバトルの本質を良くない形で変化させてしまうものもあります。

その中で、最近、小中高生を対象としたビブリオバトルを大会として開催する際に「組織票」への危惧が指摘されだしています。

ここでは、「組織票」が生まれる原因に関して触れ、本来のビブリオバトル教育関係者や指導者、大会運営者が持つべき心がけについて述べた後に、暫定的な対応の案を紹介したいと思います。

2.「組織票」とは?

「組織票」とは紹介本や発表の如何にかかわらず、ビブリオバトルの大会の参加者を応援する意図で発表者が所属する集団(クラス、クラブ、学校、家族など)から組織的に投じられる票のことです。
例えば、ある県が主催したビブリオバトル高校生大会に参加したA校の先生や生徒がみんなでA校から参加したB君の発表した本に投票する、といった行動を指します。

ビブリオバトルは書評のスピーチコンテストではありません。
しかし、ビブリオバトルを大会形式で開催すると、どうしても「勝つこと」=「チャンプ本をとること」に焦点が行き過ぎることになってしまいます。

その中で、発表者が「学校を代表して」大会に参加している場合、先生やクラスメイトが「この発表者を勝たせたい」とおもい、組織票を投じてしまうという問題があります。
ある大会では、明確にある先生が主導して、生徒たちに自分たちの学校の生徒の発表に投票をさせた ということがあったと聞きます。

もちろん、すべてのビブリオバトルの大会は公式ルールに則ってなされますので、

公式ルール4.

全ての発表が終了した後に,「どの本が一番読みたくなったか?」を基準とした投票を参加者全員が1人1票で行い,最多票を集めた本をチャンプ本とする.

の規定により、「自分の仲間だから」「自分の生徒だから」という理由で投票することは反則になります。

まず、第一に参加者は公式ルールはしっかりと守りスポーツマンシップに則り、紳士的な行動を心がけてください。
また、開催者は各参加者がゲームの意義をとルールを理解し組織票がおきない環境づくり(ゲーム開始前の説明など)を行うようにに努めてください。

3.教育という視点から

日本では集団行動を取ることは美徳とされがちですが、
ではビブリオバトルの大会で組織票を行い、仲間を勝たせようとするこの行動は「仲間を応援した行動」として美徳と言えるのでしょうか?

その答えは、完全にNOです。

  1. 組織票(応援票)を組織することはビブリオバトルのルールに反します。

  2. また,ビブリオバトルの教育活用という視点からも良くない行動です。

ビブリオバトルの公式ルールでは明確に「どの本が一番読みたくなったか?」を基準として投票することが規定されています。
このような指導は生徒に先生が「社会のルールを破ることを教唆する」ことにあたり、「赤信号みんなで渡れば怖くない」と教えているのと一緒です。

さて、ここでもう少し視点を変え、視野を広げましょう。

ビブリオバトルを学校教育に導入する際に、教育の対象は本を読み、紹介する「発表者」のためだけのものではありません。

ビブリオバトルを通した聞き手の成長こそ、ビブリオバトル教育導入の本質の一つです。
面白い本に出会うという一次的な側面を除いても、そのポイントは大きく3つあります。

    1. 発表者の話を聞き、質問を通しても理解しようとする傾聴(聞く力)の訓練

    2. 定められた公式ルールを守り、仲間との空間を作っていく社会性の訓練

    3. 自らの心に問い「一番読みたくなった本」に投票する自己決定及び民主的選挙への参加の訓練

1や2は特に小・中学校の教育では重要でしょう。

組織票に関連して重要になるのは2.社会性(「ルールを守り活動を楽しむ」)と3.自己決定(「自らの考えに基づいて投票を行う」)です。
私は、中学や高校で先生方がビブリオバトルを導入される時、その効果を最大限に発揮するために、2.や3.に関してもその教育効果を期待されているものと考えています。

さて、特に、ここでは3.自己決定に関して少し述べたいと思います。

日本は民主主義の国です。
言論の自由が守られ、基本的人権が守られた国です。

一方で、民主主義の国にしては、自らの考えに基づいて皆の前で考えを述べるという教育と文化は低調であり、大人でも苦手な人が少なくありません。
例えば、議会制民主主義の生みの国イギリスの公教育に比べると「自らの考えを述べる」教育は国語で教育の中では十分に行われていませんし、大人が人前で演説する機会も少ないです。

また、日本の人々は「多数の意見」に流されがちだと言われます。
横並びの文化があると批判されます。

言論の自由と、それに基づいた、パブリックスピーチ、また、それぞれを聞きながら自らの考えを持ち、自己決定を行う。
そのような能力や文化,教養はこれからの民主的で基本的人権が守られた社会を形作っていく上で、必要不可欠なものです。

私は、ビブリオバトルの教育活用は、その教育効果、文化形成に貢献できるものと考えています。

特に先生方が「組織票」を生徒に働きかけることは、そのようなビブリオバトルを通した言語教育の効果を真っ向から否定するものです。

教育関係者の方々は組織票を行わないように、生徒たちを指導いただき、また、大会運営者の方々は組織票が起きないような環境づくりを心がけていただければと思います。

4.対応策としての「応援席」の設置

一方で、自分の生徒や友達が「勝ちたい!」と思って発表している時に、その相手方の方に投票する、というのは特にこの和を重んじる日本の環境下では難しいことです。

いくら「公式ルールだから」という大義名分があっても、尾を引いてしまうことがあります。

また、他の発表者にしても相手の発表者の関係者が多く投票に関わっていては「組織票があったのでは?」という疑念は、他のあらゆる「疑い」と同様に本質的に拭うことはできません。

これらの問題に対して、開催者がとりうる工夫として、「応援席」の設置を提案します。

発表者の関係者(冷静には「一番読みたくなった本に投票」することが難しい人)には「応援席」に座ってもらいましょう。

応援席からはどの紹介本にも投票することはできないものとします。

このような区別を導入することで、少なくとも、発表者の関係者(先生や友人など)に過剰な心理的負担をかけることは避けることができます。
もし、すべての関係者が応援席に座ってくれれば、公平性も担保することができるでしょう。

もちろん、観客がみずからの身分を偽って観客席に座っていたり、恣意的な投票をする可能性はあります。
そこは、やはり、善意に訴えながらも「一番読みたくなった本に投票してください」と明確にアナウンスするのも、開催側の努めとして大切でしょう。

「イジメ恥ずかしい」ではありませんが、「組織票恥ずかしい」という当たり前の空気感を大会の中で形成することが大切かと思います。
(実は物言わず数で押す組織票は、いじめの構造にも似ていると私は思います)
もし、組織票を阻止できなかったとしても、せめて組織票というズル(cheat)を行って「チャンプ本」に選ばれて、全国大会に進んだなどという人は、「拭えない罪悪感を一緒に持って帰っていただく」
そういう空気感こそ、やはり最後にして、最大の抑止力になるのではないかと思います。

みんながスポーツマンシップと紳士協定にもとづいて楽しむゲーム。
そんな楽しい空間をみんなでつくりましょう!

5.さいごに ~主観性と公平性~

ビブリオバトルのイベント・大会に関連して
「ビブリオバトルのジャッジが公平じゃない、客観的ではない!」
という批判をいただくことが時々あります.

私としては
(;・∀・) 「ええええ? いまさら,何をおっしゃっているんでしょう・・・・・・???」
と思ってしまうこともシバシバです。

そもそもビブリオバトルはみんなが「主観的に面白い」と思った本を持って集まり、「主観的な言葉」で説明し、「主観的な判断基準」でいちばん読みたいと思った本=チャンプ本を選び出すメカニズム=ゲームです。

ビブリオバトルという場は、主観に満ち溢れているからこそ、「人を通して本を知り、本を通して人を知る」ことができるのです。

ビブリオバトルの大会は「もっとも発表のうまかった人を選ぶ審査会」ではありません。
その場にいるみんなが「一番読みたくなった本」を大規模に選び出す「本と人の出会いの場」です。

もしすべてが客観的であれば、人々の奥に隠れた知識や思いが顕になることもないでしょう、コミュニティが形成されることもないでしょう、その場その場のローカルなビブリオバトルの固有性が芽生えることも無いでしょう。
主観性を重んじるからこそ、完全な公平性を求めるのは時として難しくなります。

大会と名のつくものであれば、そこに公平性を求めるのは人情でしょう。
しかし、公平性は私達の目指すコミュニケーション場や教育の場のゴールではありません。
それは一つの側面であり一つの方法です。

ビブリオバトルの大会の開催を通して何をしたいのか?
ビブリオバトルの活用を通して子どもたちに何を学んでほしいのか?

開催側、参加側、一人ひとりが、今一度、考えていただいて、ビブリオバトルの大会のバランス良い運営を行っていただければ幸いです。

最後になりますが、いつも申し上げていることをもう一度。

ビブリオバトルの教育活用において、大会型のビブリオバトルは年に一度のお祭です。
ビブリオバトルの教育活用の本質はコミュニティ型、ワークショップ型での日常の中での開催スタイルと開催場所にこそあります。

ぜひ、毎週、もしくは毎月、ビブリオバトルを学校内で開催することから、すべてをスタートしてみてください。

2017年1月18日 文責:谷口忠大

ビブリオバトル発案者

一般社団法人ビブリオバトル協会代表

谷口忠大(立命館大学)

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